木村 正治
8時間前 ·
徳川家康について続編として。
先程の南宗寺の件は1615年の大阪夏の陣
の史実についてでしたが、今回はその前の
1614年冬の大阪冬の陣に関する話です。
各地を歩くと私達が認識させられてきた歴史
というものはかなり事実と違うフィクション
だと気付かされます。
奈良市内に漢国神社があります。
数年前にたまたま前を通りがかった際にブラリ
と入った境内で思わぬ事実を発見しました。
漢国神社には徳川家康から寄進された鎧が
大切に祀られています。
何故、徳川家康がこの神社に鎧を寄進したか
という理由は、漢国神社に説明がありました。
それによると1614年の大阪冬の陣に際して
木津川付近(今の京都府木津川市)にて滞在していた
徳川家康は、木津川の戦いになり、真田幸村の
軍勢に敗退し逃亡しました。
真田幸村の軍勢に追われあわや捕らわれるか
という寸前に徳川家康はこの神社の境内にあった
桶屋の中に身を隠し真田幸村の軍勢による追手
から逃れることができ、九死に一生を得た徳川家康
は感謝の気持ちとして漢国神社にお参りし、鎧
を寄進しているのです。
これまで私達が知らされてきた徳川家康の姿
とはかけ離れた姿ばかりが浮かび上がってきます。
大阪冬の陣に際して合戦の場が大阪だけでなく
木津川沿いの今の京都府南部から奈良市内に
かけて及んでいたこと、徳川家康はその木津川
の戦いにて真田幸村の軍勢に敗退していること、
先に投稿した南宗寺の史実により大阪夏の陣では
退散中に槍で突き刺され戦死していたことなど、
教科書やドラマの描写とはかけ離れた風景に
驚くと共に、歴史とはかくなるものかと改めて
感じています。
真田幸村はやはり強かったのです。
また豊臣勢もかなり強かったということですね。
ここでふと思うのは大阪の人々の過剰なまでの
東京に対するライバル意識、対抗心です。
なぜ大阪の人々は東京に対する対抗心や時には
嫌悪感を露骨に示すのか、私は長年理解できない
ままでした。
単に関東に負けたくない、という心理とは違う
底深いものを感じていました。
ある時、行事の際に同席した生粋の大阪生まれで
大阪育ちの大阪の企業経営者に酒を交えながら
尋ねたことがありました。
「それにしても何故、大阪の人々はあそこまで
東京に対して対抗意識を持つのですか?」
と気楽な気持ちで質問した私に対して意外な返事
が返ってきたのです。
「それはな、大阪夏の陣から起因するんや。」
とその企業経営者はおっしゃいました。
大阪夏の陣の時からの遺恨、思いが根底にある
そうです。
その経営者はあまり詳しくは語りませんでしたが
確かに大阪夏の陣で滅亡した豊臣に対して徳川勢
は大阪の一般老若男女を多数、なぶり殺しています。
これは絵巻にもその模様が描かれていますが、
普通戦さは軍と軍とが戦い、兵と兵が戦闘を行い
ます。
敵の総大将が討ち取られたり降参すれば、そこで
合戦は終了し後は交渉となります。
ところがこの大阪夏の陣においては豊臣方の
総大将の豊臣秀頼や淀君が自刃し大阪城が焼け
落ちた後も徳川軍は逃げ惑う大阪の老若男女を
執拗に殺害しています。
まさに虐殺が行われたのです。
そのような地獄絵図が今の大阪人の東京や関東
に対する過剰なまでの対抗心に繋がる根の部分
だとの事ですが、しかし何故、合戦に勝利した
徳川軍がそこまで大阪の一般の老若男女を惨殺
したのか理由がよく分かりませんでした。
しかしふと、南宗寺での徳川家康戦死の事実が
私の頭をよぎった時、その理由が見えた気がし
ました。
この時の徳川軍は総大将の徳川家康が戦死した
事を隠し続けて合戦を継続し、結果として武力
で勝利したに過ぎません。
徳川家康が本当は戦死していたという焦りや
それが漏れたらどうなるかという怯えや恐怖が
徳川軍幹部を突き動かしたとしても不思議では
ありません。
歴史の常として虐殺はよく恐怖や怯え、或いは
何か秘密がある場合の口封じで行われることが
少なくありません。
徳川軍による大阪の一般の老若男女の虐殺は
そのような心理から生じたのではないかと私は
推察します。
もし徳川家康が健在のまま勝利していたなら
徳川軍による大阪の一般の老若男女の虐殺は
無かった可能性が高いと私は見ています。
そのような大阪夏の陣の風景が今日まで尾を引き、
生粋の大阪人による過剰なまでの東京に対する
対抗意識や嫌悪感まで生じている事実は歴史が
生み出す地域感情というものは軽視できない事を
示しています。
それにしても歴史の真相は知れば知る程に
楽しいです。
これからも随時、歴史の風景を紐解いていきたい
と思います。